高校の「総合的な探究の時間」が2022年度にスタートしたことを踏まえて、昨年10月に『フィールドワークってなんだろう』(ちくまプリマー新書)を出版した関西学院大学の金菱清教授は、仙台市にある東北学院大学勤務時代に東日本大震災を経験。学生たちと被災地をフィールドワークして、多くの被災者の声を記録してきた。とりわけ、幽霊と出会った話に着目して、さまざまなメディアで取り上げられた。インタビュー第2回では、学生が活動する中で気付いたことなど、フィールドワークの実際の様子を聞いた。(全3回)
――東日本大震災の被災地で、幽霊と出会った人の話をフィールドワークで集めた研究が各方面で注目されました。
最初から幽霊の話を集めようと思ったのではありません。ただ、前回も紹介しましたが被災者に手記を書いていただいた時に「書いてすごくよかった」と言っていただくとともに、「亡くなった息子と一緒に書いている」と言われたりして、死者を抜きにして東日本大震災の被災を考えることはあり得ないと思いました。そして、死者と震災が大きなテーマとなりました。
学生がフィールドワークでさまざまな話を集める中で、幽霊に関わる話もいろんな形で持ってきたのですが、それこそよもやま話やまた聞きで、うそか本当か分からない話も多くありました。そうしているうちに、ある学生が、タクシードライバーから幽霊の話を聞き取って来たのです。その話はすごくリアリティーがあったので、「じゃあ、もうちょっとそこを調べてみたら」というところから始まりました。
最初に論文としてまとめた時に、非常に多くの方から連絡をいただきました。おそらく、科学論で押さえ付けられて話すことができずにたまっていたものがあったのでしょう。「自分もこんな経験がありました」と、本当にたくさんのメールや手紙をもらいました。

――当時、オカルト批判で有名な教授が否定的に取り上げて、それに対する宗教界などからの反論もありました。
そうですね。フィールドワークは幽霊の存在の有無を論じているのではなくて、その人が信じているというか、そう感じた人の話を聞くことと、そのフィードバックがメインですから、オカルトとは別の話です。この方以外にすごい批判を受けると思っていたのですが、意外に賛同が多くて、びっくりしました。
身近な人を亡くした方も大勢いらっしゃる中で、人には言わないけれど、夢枕に立ったとか、いろいろな不思議な体験をされている人がたくさんいて、そういうことが本として記録に残っていることで、安心感につながっている部分はあるのかな、と思います。
――先ほども死者を抜きにしては語れないとおっしゃいましたが、どう追悼すればいいのか、という気持ちが皆さんにあったのかもしれません。
東日本大震災では行方不明者が多く、それが研究を進める上で大きかったのです。3.11の直後は、キリスト教も仏教も含めていろんな宗教団体が被災地に来て、手を合わせて拝んでいたのですが、すごく不自然に思ったのです。まだ行方不明で捜している家族がたくさんいるのに、それを亡くなった人として弔うのはどういうことなのかなと。
研究をひも解いてみると、不浄物を一刻も早くあの世に送るという考えで、すぐに忘れなさい、ということのようです。けれど、幽霊を乗せたと語るタクシードライバーが「幽霊がまた同じように手を上げたとしても、何度でも乗せるよ」とおっしゃいます。これは、弔いとは全然違う話になってきます。われわれの日常には、すぐに処理できないけれども大切にしているものがあって、幽霊の話と自分の日常生活とが重なってくることには、とても大きな意味があると思います。
学生時代に、「事実と自分の思うこととを混同させなさい」と言われました。例えば花が咲いている時に、それを「雲だ」と認識したら、それは事実ではないのだけれども、その人の目を通したら雲であることを否定できない。雲だと信じている人がいるということが重要なのです。

前回話したように、学生たちにはフィールドワークで聞いたことを全て文字起こしさせて、発表してもらいます。学生が面白いと思うところと、私の感覚とが結構ずれていることがありました。そこは非常に面白い。例えば学生は、震災で傷ついたことを乗り越えるというドラマチックな部分に着目しますが、でもそれを乗り越えるよりもっと手前のところで、興味深いことがたくさんあるのです。
熊本地震の被災地では、大学生の子どもを亡くした親を取材しました。亡くなった子どもの遺骨を納骨せずにずっと置いていたり、使った綿棒も大切にしていたり、あるいは衣替えを今もやっていたりする。そういう行為自体に着目すべきだと思いますが、学生はできていませんでした。ありきたりのことではない、一般的なものとは違う行動をこの人たちはしていて、その時にトラウマ(心的外傷)がどういう意味を持つのか。そういう話を深めていくという感じですね。
――そうした細かなディテールの大切さには、何度もフィールドワークを重ねていくうちにだんだん気付いていくものなのですか。
社会学は斜めに見るところが必要で、真正面からだと見えなくなることもある、という二重性は必要ですね。亡くなったら納骨をしたり、服を処分したりするのが当たり前とされますが、そうではなくて衣替えを続けていたり、綿棒に付いたものをいとおしく思ったりするというのは、いったいどういうことなのか。それを考えることが重要なのではないかと、学生たちには伝えています。

【プロフィール】
金菱清(かねびし・きよし) 1975年大阪府池田市生まれ。関西学院大学社会学部卒。関西学院大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。東北学院大学教養学部地域構想学科教授などを経て、現在、関西学院大学社会学部教授。専門は、社会学・災害社会学。著書に『生ける死者の震災霊性論――災害の不条理のただなかで』『震災メメントモリ』『3.11慟哭の記録』『呼び覚まされる霊性の震災学』(単編著。以上、全て新曜社)、『震災学入門――死生観からの社会構想』(ちくま新書)など。